地楡~変化~(第一部)
一ノ瀬瑞穂にとって、その日はいつもと変わらない日だった。空はどんよりと曇っていたが、梅雨時期ということを考えれば、特筆すべきものというわけではない。だが、それも一日中は続かなかったようだ。
放課後、校舎から出てきた彼女は、数歩も歩かないうちに足を止めた。
その背中に、後ろを歩いていた友達が見事にぶつかる。
「ふみゅっ、……痛いよ~、瑞穂ぉ」
「あ、ごめん」
ぶつけてしまった鼻の頭をさすりながら、瑞穂の友達――風御門雅衣が抗議の声を上げる。
彼女は良く言えばのんびりとしたやさしい雰囲気、一般的に言えばいつもぼーっとしてるのでいまいち感情がわかりにくい。だから非難しても迫力なんてこれっぽっちもない。だからというわけではないだろうが、瑞穂は視線を前に向けたままおざなりな返事しか返してこなかった。
不思議に思ったのか、雅衣は瑞穂の視線を追う。だが、そこには下校する生徒たちの姿がちらほら見える校門があるのみで、特に変わったものはない。
「どうしたの、瑞穂。なんか、ぼーっとしてる?」
「なんか、雅衣に言われるようじゃあ、私もおしまいって感じだけど……。えーと、あれ――」
「私はそんなにぼんやりしてないわよぅ」
そう思っているのはきっと彼女くらいだろう。不満そうにつぶやきながらも、再び瑞穂の指さすほうに視線を戻した。
そこには、一人の女の子が立っていた。
今は下校時間であったし、それ自体には何の不思議もない。瑞穂の注意を引きつけたのは、彼女の着ている服だった。
瑞穂たちの通う学校は、五年ほど前に生徒の要望もあって制服のデザインを変えた。名の知られたデザイナーに依頼したらしく、新しい制服の評判は上々だった。新しく入ってくる新入生はもちろん、既に制服を持っている女子生徒の中にも買い換える者がかなりの数出るほどだった。
だが、その女の子が着ていたのは、古いデザインの方の制服だった。
古い制服を着ること自体は校則違反でも何でもないが、変更されて一、二年はともかく、古い制服を持っていた生徒が卒業した今となっては着る人も皆無である。瑞穂は姉も同じ高校に通っていたので知っているが、古いデザインの制服を知っている人も少なくなっているだろう。
もっとも、ただそれだけであれば怪訝には思っても足を止めることはなかったはずだ。姉のお下がり、という可能性もあるのだから。
彼女の足を止めたのは周りの様子であった。統一された制服の中に、一つだけ違う物が混じっているのはかなりの違和感を放ち、目立つ。その上、彼女は校門の真ん中に立ち止まっていたから、全員とは言わなくても多くの人がそちらに目をやりそうなものである。にもかかわらず、周りの生徒たちはそこに何もないかのように全くその女の子の存在を無視していたのだ。
「……校門、だね?」
「校門じゃなくて、女の子」
不思議そうに言われ、瑞穂は改めて女の子を指さした。だが、それでも雅衣は解らないらしく、怪訝そうな顔で瑞穂の方を見た。
「ほら、昔の制服を着た女の子がいるじゃない。校門のところに」
しばらくの間、雅衣は瑞穂の指さす方を凝視していたが、やがて片手を頬に当て、虚空を見つめて考え込んだ。端から見ると目の焦点のあっていない危ない人である。だが、それはいつものことだ。つき合いの長い瑞穂は軽く視線を向けることはしても特になにも言わなかった。
考え込んでいたのは一分程だろうか。何か納得したように、こくん、と頷くと携帯電話をとり出してどこかに電話をかけ始めた。
「……何してるの、雅衣?」
「ちょっと待ってね。車を呼ぶから。――えーと、熱はないみたいだから、やっぱりあっちかしら?」
雅衣は少し背伸びをし、瑞穂の首に抱きつくようにして自分の額を瑞穂の額に当てる。瑞穂は特に長身というわけではないが、雅衣の背が平均より低めなので普通に額を近づけても届かないのだ。
そしてしばらくして額を離すと、再びなにか確認するかのように、うんうん、と頷く。
「ちょ、ちょっと……」
「瑞穂、心配しなくていいよ。きっとちょっと疲れてるんだよ。良いお医者さま紹介するから。軽いカウンセリングを受けて静養すればすぐによくなると思うの」
「いや、だから……」
「欧米では多くの人にかかりつけのお医者さまがいるんだよ。日本じゃあんまり良いイメージはないけど、不安にならなくていいの」
「あの……」
「カウンセリングが終わったら、二人でどこか空気の良い別荘に行って、しばらくのんびりしよ、ね?」
「だから、待てぃ!」
これ以上良い考えはない、とでも言うような表情でにっこりと笑った雅衣から携帯を奪いとり、電源を切って瑞穂は荒い息をついた。
「どうしたの瑞穂? そんなに息を切らせて」
「誰のせいだと思ってるのよ……」
「誰せいなの?」
のんびりしている割に――いや、だからか――マイペースな雅衣の性格に瑞穂はため息をついた。悪い性格ではないのだが、つき合わせられるほうとしては時々異様に疲れる。たとえば今のように。
「……つまりなに? 雅衣には見えないと?」
「うん」
「で、私が熱を出して幻覚を見ているわけでもないようだから、頭がおかしくなったと思って精神科医に連れていこうと?」
「頭がおかしくなったなんて……。ストレスから来る幻覚じゃないかな。だから少し療養しようよ、ね?」
顔を覗き込みながら、本当に心配そうに言ってくる雅衣に、一瞬自分でもそうなのかも、と思ってしまった瑞穂だったが、それを振り払うように頭を振ってはっきりと言った。
「ストレスなんか溜まってない! 幻覚でも……ない、と思うんだけど――」
断言できたのは前半だけだった。後半の台詞を言いながら、不安そうに周りを見回す。だが、彼女の期待に反して、彼女のほかに不思議そうにしている生徒は愚か、その女の子の方を見ている人さえ居なかった。突然キョロキョロし始めた瑞穂に視線が集まっただけである。
いや、その中に唯一人、彼女の少し後ろに立っていた男子生徒のみが校門のところに視点を合わせていた。だが、瑞穂のように不思議そうな様子は見せず、平然としている。
「――御巫くん?」
それは瑞穂と同じクラスの御巫怜だった。怜は一瞬だけ瑞穂に視線を向けたが、すぐに歩き出して彼女の横を通り過ぎた。あわてて声をかけようとした瑞穂だったが、その機先を制すように怜が一言呟いた。
「忘れろ」
「えっ?」
その台詞は怜にもあれが見えていたことを示すものだったが、突然厳しい口調で言われた言葉に、瑞穂はしばし惚けてしまった。そしてその間に怜は足早に歩み去り、彼女の視界から姿を消してしまった。
「……誰、かな? あの人」
先ほどの瑞穂のつぶやきが聞こえていなかったのか、雅衣がそう聞いてきた。だが、瑞穂と雅衣は同じクラス、当然、御巫と雅衣も同じクラスである。
「なに言ってるのよ、同じクラスの御巫君じゃない」
あきれたように言った瑞穂に、雅衣は一瞬沈黙し、やがて苦笑を浮かべてうなずいた――それがただ笑ったのではなく、苦笑と解るのは瑞穂くらいだろうが。
「そうだよね。うん。あれ、どうしたんだろうね……?」
「なんか、御巫くんって、影が薄いらしいよね」
「何だかそんな感じだね。瑞穂はそう思わないの?」
「うん、全然。だって、どっちかというと目立つキャラクターじゃない?」
普段、怜は明るく社交的で、クラスメイトともよく話す。何か行事があるときでも大抵参加しているし、勉強も結構できる。ルックスも性格も悪くない。瑞穂が聞いた噂では、喧嘩も強いという――あまり関係ないが。
そんなことを瑞穂が言うと、雅衣も不思議そうな表情になった。
「う~ん、なぜかな?」
「そうなのよ。女の子たちの噂にも上らないし」
「じゃあ、ライバルも少ないよね。私、がんばってみようかな?」
「えっ、、、本気、なの?」
あわてたように聞き返した瑞穂に、雅衣は頷いて言った。
「うん、それなりに……と、思ったんだけど、もしかして身近にライバルが居る……?」
「だ、誰だれのことでせう?」
「さぁ、誰なのかな?」
雅衣は彼女としては意味深な笑み――一般的には、ほにゃ、と言った感じの笑みを浮かべて答えず、話題を変えた。
「でも、確か御巫くんって、いつもはもっと物腰が柔らかい人だよね?」
それは、ある意味で瑞穂にも好都合だったようだ。あえて話題を戻そうとはせず、答えた。
「そうよね。どうしたのかな、さっきは。なんだか恐かったね」
瑞穂はそう言って、校門の方に視線を向けた。だが、そこには怜の姿はもちろん、すでに女の子の姿もなかった。
「ねえ、御巫くん。ちょっといい?」
「す、すみません。僕、何か気にさわることをしましたか? ごめんなさい、すみません。以後気をつけますから許してくださいぃぃ」
「えっ、なっ、なに?」
「あ、許してくれるんですか! ありがとうございます。それじゃあ、僕はこれで!」
しゅたっ、と手上げて立ち去ろうとした怜だったがその試みは二人の人間によって阻止された。独りは言わずとしれた瑞穂、もう一人は――
「ちょっと――」
「待たんかいっ」
ぱこぉぉん
突然、頭をはたかれた怜は動きを止めて、後ろを振り返った。そこには予想通りの人物が、丸めた教科書を片手に持って立っていた。
怜と一番つきあいの深い古川義郎である。怜の試みを阻止したもう一人の人物である。
誰とでも無難につきあっている怜だったが、本当に親しいといえるのは義郎くらいだろう。そして、怜に対してこんな無遠慮なことをするのも、できるのも彼くらいだ。
「なにをする、義郎」
怜は憮然とした表情で義郎を睨んで言ったが、彼は全くこたえた様子もなく、軽く笑いながら言った。
「一ノ瀬さんの話、ちゃんと聞けよ」
そういわれて、怜はしばし義郎と瑞穂の顔を見比べる。そして、観念したように軽くため息をつくと、呟いた。
「……裏切りやがって」
「なにを言う、俺は常に正しい方の味方だぞ」
「ほう、その判断基準は女の子であること、か?」
「優先順位が高いことは否定せんが、一番ではないな」
「……一応、後学のために一番を聞いておこうか」
「好みの女の――」
「もういい、だまれ」
怜は義郎に皆まで言わせず、手を挙げて台詞を遮った。
「いやー、惜しかったな、親友であることは二番だったんだがな。ちなみに、社会的良識やモラルは三番目だ」
「いいのか、それで、おい?」
あきれたように言う怜だが、義郎は平然と答えた。
「いいんだよ、俺は親友を選ぶからな」
「好みの女の子は?」
「どうしたの、一ノ瀬さん? コイツがなんかやったの? でも、正面から殺るのはやめた方が良いよ。怜は本当の意味で男女同権主義者だから、女の子でも結構容赦ないし。お奨めは朝駆けかな、怜は朝弱いから」
怜の今度の質問は全く無視された。義郎は怜から完全に視線をはずし、瑞穂に対して聞かれていないことまでぺらぺらしゃべる。明らかに誤魔化そうとしているのだが、出しにされた瑞穂は良い迷惑である。
瑞穂はその勢いに押されたようにちょっと身を引くと、あわてて手を振った。
「い、いや、そうじゃなくて、ちょっと話がしたかっただけなんだけど……」
「えっ、そうだったの? なんか雰囲気から、てっきり……」
意外そうな顔をした義郎の頭を軽く叩いて怜が立ち上がる。
「しかたない。ちょっとシメられてくるか」
「おう、ほどほどにな」
その背中をぽんぽんと義郎が叩いた。それを見て瑞穂が困ったように口を挟む。
「いや、だから違うって――」
「行くんでしょう? 早くしてください」
瑞穂の言葉を遮って怜はそう言うと、彼女を待たずに歩き出した。
「あ、ちょっと待ってよ。私が顔貸して、と言ってるのに、何で御巫くんが先に行くのよ!」
さっさと教室を出ていった怜を追って瑞穂は駆けだした。
数分後、二人の姿は屋上にあった。他人に会話を聞かれたくなかったのだろう、校舎の入口から離れた屋上の隅に立っている。
屋上の周囲には高さ3メートルほどのフェンスが張り巡らされ、休み時間などは生徒に解放されている。貯水槽やエアコンの室外機などの他には、ベンチがいくつか置いてあるくらいだったが、季候の良い時期は昼休みのみならず、授業の間の休憩時間でも生徒の姿を見かけることが多い。
だが、授業が始まるまでほとんど時間がないためか、怜と瑞穂には好都合なことに、二人の他には人の姿は見あたらなかった。
「それで何の用ですか? 気に入らないからシメるってわけでもないと思いますが」
聞くまでもなく、怜には瑞穂の言いたいことが解っていたが、あえて気づかない振りで尋ねた。
「当たり前よ。――解ってるでしょ? 昨日の事よ」
「さぁて、何のことでしょうか」
瑞穂の返答は予想通りのものあったが、怜は曖昧に答え、瑞穂から視線を逸らしてフェンスに体をあずけた。
瑞穂はそんな怜の態度が不満だったのか、怒ったように数歩近づくと、彼のもたれているすぐ横のフェンスを片手でつかんだ。そして、怜をきつい視線で見ながら言葉を続けた。
「昨日の放課後の事。見えてたんでしょ、御巫君も?」
瑞穂の声は固かった。それでも怜はそちらに視線を向けることなく、晴れ上がった空を眺めていた。
今日は梅雨の中休みというものか、絶好の昼寝日和、日向ぼっこ日和と言った風情である。微かに流れる風が肌を撫でて行き、髪を揺らす。
少々の悩み事なんて忘れてしまえそうな、そんな日。だが、今日はどうも例外のようだった。
しばし二人の間に沈黙が落ちる。やがて、怜が軽くため息をつくと、少し瑞穂に視線を向け、呟くように言った。
「……忘れろ、って言いませんでしたか?」
「そんなこと言われても……」
言葉尻を濁した瑞穂に、怜は言葉を継いだ。。
「その方が一ノ瀬さんのためだと思いますが」
「――見えていたかどうかくらい教えてくれてもいいんじゃない?」
「もちろん見えていましたよ」
答えないだろうと言う瑞穂の予想に反して、怜はあっさりと認めた。拍子抜けする瑞穂に、しかし怜は念を押すように言った。
「だからこそ、忘れろと言っているんです」
「……どうしてなの?」
すでに怜ははっきりと瑞穂に視線を向けていた。
「月並みな言い方ですが、知らない方がいいこともあると思いますよ。また、知ってしまってからでは遅いことも」
「それでも知りたいと言ったら?」
強い視線を向けてくる怜に、負けないくらいの視線を向けて言う。だが、怜は全く表情を変えることはなかった。
「私は関知しません。言うことは同じですね。忘れろ、それだけです」
そう言うと、怜はすぐに背を向けて歩き出した。
「ちょっ、ちょっと待ってよ! それで納得できるわけないじゃない!」
瑞穂はその背中に向けて叫んだが、彼は一瞬彼女の視線を向けただけで、立ち止まることなく彼女の視界から消えていった。しばらくの間、怜が入って行った校舎への扉を睨んでいた瑞穂だが、やがて深いため息を付いて呟いた。
「忘れろ、って言われて、はい解りました、と忘れられるわけないじゃない」
一人屋上に取り残された瑞穂は、屋上のフェンスに寄りかかり、先ほどの怜のように空を見上げた。
怜に対して、不安を綺麗に取り除いてくれることを期待していたわけではないが、まさかあそこまで取り付く島もない対応をされるとも思っていなかった。
普段の怜は基本的には社交的だったし、行動を見ていても冷たいという印象を受ける人間ではない。だが、昨日の言葉を言った瞬間、そして言葉こそ丁寧だったが先ほど瑞穂が問いつめた時、いずれも雰囲気が普段と全く違っていた。それに、最後にわずかに見せた怜の表情と黒い瞳……冷徹な、というのとも違う、何か深い――たとえるなら、かける言葉すべてを飲み込んでしまう深淵とでも言ったもの、そんな感じを受けた。
ただ一つ得たのは、普通に聞いたところで決して何も教えてはくれないだろう、そんな確信だった。
既に始業のチャイムは鳴っていたが、瑞穂は一人、ほとんど雲のない空を睨み続けていた。
「振っちゃったの?」
屋上からの階段を降りる途中、突然声をかけられて、怜は立ち止まった。声のしたほうに目を向けると、今まで気付かなかったが、雅衣が立っていた。
「……風御門さんですか。心臓に悪いので、気配を殺して近づいてくるのは止めてください」
「え~、そんなつもりはないんだけど……」
雅衣は、なぜかてれたような笑みを浮かべて、頭をかいた。
「まあ、次からはお願いしますね」
そう言って立ち去ろうとした怜の袖を、いつの間にか雅衣が掴んでいた。
「ちょっと待ってよ~。質問に答えてないの」
「………」
ぼんやりとしているとしか思えない雅衣の、意外な一面を見て一瞬沈黙してしまった怜だったが、すぐに気をとり直して聞き返した。
「どうしてそう思うんです?」
「だって、うまくいったら、腕を組んだり、肩を抱きあったりしながら二人で降りてくるでしょ?」
何かうっとりとした口調で言う。手は胸の前で組み合わせ、視線は虚空を見上げて別の世界を見ているようだ。そんな雅衣の様子に怜は苦笑して、彼女の思い違いを正した。
「そんな色気のある話しじゃないですよ。どちらかと言えば対局に位置するかもしれませんね。……それにたとえ告白されても、一般的にその直後から肩を組んで校舎を徘徊することはないと思いますが」
「徘徊……ああ、素敵ね。私もかっこいい彼氏と徘徊したいわ」
「そ、そうですか……」
冗談で使った『徘徊』という言葉を何か素晴らしい言葉のように言われ、怜は鼻白んだが、気をとり直して言った。
「それよりも、そろそろ授業が始まりますよ?」
そう言われ、雅衣は少し考え込んだ。見慣れない者が見れば、いつもと同じようにぼーっとしているだけだが。
「う~ん、あの先生の素晴らしい催眠話術が聞けないのは残念だけど、瑞穂が落ち込んでるような気がするから、屋上に行くわね」
そう言うと、怜にほんわか笑いながら、ふよふよと手を振って屋上への階段を上って行った。その背中をしばらく見送った後、怜はぽつりと呟いた。
「……つまり、俺が言い訳をするわけか、二人がサボることの?」
「おう、なんだった? 告白か?」
教室に戻ってきた怜に、笑いながら声をかけた義郎だったが、彼はうんざりした表情で頭を左右に振った。
「ふぅ……おまえもか、ブルータス」
「むっ、いつ俺がおまえを裏切った?」
義郎が不満そうな顔で言うが、それを怜は鼻で笑った。
「ほう、ほんの数十分前の会話、あれは俺の記憶違いか?」
「その歳ですでに記憶に障害が出ているのか? 若年性痴呆症というやつだな」
「その言葉は鏡に向かって言うべきだな。あれは結構やばいらしいぞ? 気をつけることだ。……まあ、そんなことはどうでもいい」
冷笑を浮かべていた顔を一転して引き締め、怜は声を落とした。
「昨日のことなんだがな、校門の所にアレがいたんだよ。どうも、それが一ノ瀬には見えたみたいなんだ」
それを聞いて、義郎のほうも心持ち真面目な表情になる。
「ふむ、そして悩んだ彼女は、それが見えていたらしきお前に声をかけてきた、と」
「そういうことだな。とりあえず、忘れろ、と言ってはおいたんだが……」
「無理だろ、そりゃ。説明してやれば良いんじゃないのか?」
義郎はあきれたように言ったが、怜の返事は曖昧だった。
「それもなぁ。たぶん、一ノ瀬は初めて見たんだと思うんだ。説明することで、これからも見え続けるきっかけになったら嫌だからな」
「やっぱ、見えるのは嫌なものか?」
「慣れればそれほどでもないが、やはり気持ちの良いものではないな。それに、一歩間違えば、白い壁の向こう側だぜ?」
怜は軽く笑みを浮かべておどけたように言ったが、目は笑っていなかった。
「しかし――」
だが、義郎の台詞はチャイムと扉の開く音で遮られた。不満そうな顔をした義郎だったが、怜が前を向いてしまったので、仕方なく口をつぐんだ。
チャイムと同時に教室に入ってきた数学教師は、出席簿を開いて教室を見渡し、一つだけ空いている席に目を止めた。
「おや、二つ席があいているが……?」
「一ノ瀬さんと風御門さんは体調が優れないようで、保健室で休むと言っていました」
教師の言葉に他の生徒が反応する前に、怜は素早く手を挙げてそう言った。
「そうか、解った」
雅衣はもちろん、瑞穂も一般的に優等生で通っていたし、怜の方も教師たちからの覚えは悪くなかった。教師はそれだけ言うと、出席簿にチェックを入れる。そして、学年で随一の秀才、雅衣に『催眠話術』と評された授業を始めた。
授業終了までに、その効果は生徒の三分の二に及んだのだった。
第二部へ続く