ジルバートは○○貴族の夢を見るか?
ある昼下がり。その日、白熊亭は珍しく閑散としていた。客はたったの四人、食堂の隅に陣取っているだけだ。
「……暇じゃな」
「暇ね~~~」
昼間から酒を飲んでいる不良神官ドワーフのドウ・ルーアがぼやくと、それにミュール・スノウが応じる。一人黙々と食事をしていたカシムもその言葉にうなずく。一応グラスランナーのパコもうなずいているが、ジュースの入ったコップを両手で持ち、嬉しそうに飲んでいるその姿からは、暇を持て余しているとはあまり思えなかった。
「あたし、そろそろ仕事見つけないと、食事もままならないんだけど……」
マスターに分けてもらった水と、自分で作った兎の薫製肉という質素な食事をとっていたミュールが呟く。その視線は黙々と定食を片づけるカシムに向いている。どこかしら恨みがましいのは決して気のせいではないだろう。
「何か仕事はないのかみゅう?」
そんなミュールの様子に少し気の毒になったのか、パコがジュースを置いて壁際に駆け寄った。
白熊亭の壁の一面は自由にチラシを貼れるようになっており、そこに貼られる物は大まかに三種類に分けられる。すなわち、仕事の依頼、仲間の募集、その他、である。しかし、文化的生活が危機に陥っているミュールがそこをチェックしないはずもなく、お世辞にも熟練冒険者とは言えない、というより駆け出しの彼らにこなせそうな仕事など、すでに残っていなかった。
そのことはパコも解っているはずだが、新しい物がないか一応チェックしているのだろう。そして、一つだけ昨日は貼られていなかった張り紙を見つけ、首を傾げた。
「あれは何だみゅう?」
それは残念ながら『その他』に分類される物だった。しかも書いてある意味がよく解らない。曰く、
『逆らうな 地獄を見るぞ 確実に』
お世辞にも、あまり上手くない字で書いてある。
「……マスター、あれ、何だみゅう?」
「ああ、それか? ライアスって奴がな、最近、川柳というものを覚えたらしくて、昨日酒に酔った勢いで書いて貼ってたぞ」
グラスを磨く手を止め、マスターが応じる。短い文章にも関わらず途中で書き直した後があったり、線が歪んでいたりするのは、書き手に酒が入っていたからなのかもしれない。
「で、誰に逆らうな、ってことなんだ?」
食事を終えたカシムが食器を手にやってきた。相変わらずその背中にミュールの恨めしそうな視線が突き刺さっているところを見ると、お裾分けもせず、黙々と食べ尽くしたのであろう。
「ああ、そういえば、お前はここに出入りするようになって日が浅かったな。無事に日々を過ごしたかったら、ラシェルってエルフには逆らわんことだ」
「ふーん、なぜだ?」
「さて、な? 気になるのなら、逆らってみたらどうだ? あまり勧めんが、理由は解るかもな」
「……いや、止めておこう。君子、危うきに近寄らずだ」
「まあ、それが賢明だろうな」
そういうとマスターは再びグラスを磨き始めた。
白熊亭の夜は静かに更けていく……。
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ジルバートにとって、朝の剣の修行は日課である。以前は多少さぼり気味だった修行も、最近見つけた仲間と冒険に出るようになってからは欠かしたことはなかった。
とはいっても、相手がいるわけではない。以前は父親に相手をしてもらっていたが、最近はほとんど打ち合うこともなくなった。だが、決して彼の父親が老いたわけではない。それどころか、今、本気で打ち合ってもたぶん勝てないだろう。貴族としての責務が忙しく、ほとんど剣の修行をしている時間など無いはずだったが、それでも時折見る父親の剣に衰えは感じられなかった。
そんなわけで、一人で基本の型を繰り返すわけだが決してそれが無駄になるとは思っていなかった。基本なくして応用はない、それが彼に剣を教えてくれた師匠の言葉だった。
「ジルバート様、ジルバート様!」
玄関の方から聞こえてきた声にジルバートは手を止めた。そちらに目を向けると、彼の家――エゼン家にジルバートが生まれる前から仕えている執事が、ゆっくりと近づいてくる所だった。
「ジルバート様、お父様がお呼びです」
「解りました。すぐ行きます」
彼は執事に鞘に収めた剣を預けると、代わりに差し出された布で汗を拭きながら父親の元へ向かった。
ジルバートが父親の執務室に入ると、彼は机に向かって何か書き物をしている途中だった。以前ならば彼に付き合ってくれたこの時間帯も、最近は執務に当てている。そんな父親の体調を心配する気持ちもあったが、わずかばかりの安堵があったことも否定できない。なぜなら、父親に修行に付き合ってもらうと生傷が絶えないからだ。それも、ジルバートの方にばかり。
「父上、お呼びとのことですが……」
「ああ。これを読んでみろ」
彼は顔を上げもせず、机の上にあった一枚の書状を彼に向かって突き出す。普段彼が使っている物とは比べ物にならないほど質の悪い紙に、下手な字で何かが書き連ねてある。訝しげな表情を浮かべつつも、それを受け取り目を通していたジルが困惑したように顔を上げた。
「これは……脅迫状ですか」
「そのようだな。今日、うちに投げ込まれていたらしい」
下品な修飾満載のその文章を要約すると、『二万ガメル払え、さもなくばジルバートの命を頂く』といった物だった。誰が書いたのか解らないが、一行ですむ内容を数十行に渡って書くことはある意味才能かもしれない――使い道はないが。
「私の命は二万ガメルですか……」
複雑そうな表情で呟くジルバートをちらりと見上げて、彼の父親は軽く鼻で笑った。
「悪くない金額だな。二万ガメル程度、普通の貴族なら案外簡単に払うだろう。実際に狙われるかどうか解らなくてもな」
「普通の貴族なら、ね……それで、父上はこれを受けて、どうするおつもりですか?」
「特に何もせん」
あっさりとそう言われて、しばし絶句するジルバート。
「……つまり、調査もしない、と」
「そうだ。自分の身ぐらいは自分で守れ」
エゼン家は貴族には珍しく放任主義であった。最低限の保護――幼い頃は護衛つけるなど――はしてくれるが、それ以上は自分で何とかしろ、というような家風がある。前々からその傾向はあったが、ジルバートの剣の腕が上がってきた最近はそれに拍車が掛かっているようだ。今回のことについても本当に何もするつもりはないのだろう。
「そうですか。では、死んだときは葬式をよろしくお願いします」
「自分の身も守れん息子に出す葬式なんぞ無いわ。共同墓地に放り込んで終わりだ」
あんまりな言いようにジルバートは苦笑した。さすがに親子だけあってつきあいは長く、父親の性格も解っていた。それが彼なりの激励の言葉なのだろう。
「解りました。死なないよう、がんばります」
ジルバートは、結局一度も顔を上げなかった父親に一礼した。
「さて、どうしますかねぇ?」
すでに日課となっている『白熊亭』への道を歩きながらジルバートは呟いた。父親の仕事の関係上、命を狙われること自体は今までにも何度か経験がある。さらわれた経験も皆無ではない。そのいずれも何とか切り抜けてきたジルバートだったが、今回は狙っている相手がよくわからないのが不気味と言えば不気味だった。
以前に比べれば、自分の腕もあがっているという自負もある。多少のことで命に危険が及ぶとは思われ無かったが、全く心配ないと言い切れるほど彼も楽天家ではなかった。誰かに手伝ってもらうなりして、犯人を見つけて解決してしまうのが一番良いのだろうが……。
しかし、そんな思索は目の前に現れた奇妙な物によって中断された。
それは縄だった。それも普通の縄ではなく、黒く塗られている。もうすこし日が暮れてあたりが暗くなれば、闇にとけ込んで判別が難しくなるのかもしれないが、今はまだ日が傾き始めて間もない。黒い色は逆に目立たせる役にしかたっていなかった。
縄はジルバートの進路上に丸い輪を作って置かれていた。そこから延びる縄の一方は、側の路地裏へと消えている。
ジルバートはその形に見覚えがあった。以前参加したレンジャーの講習で初歩の罠として教えてもらった物に酷似している。輪になった縄の中に獲物、つまり獣、時には人間が足を踏み入れたとき、片方の縄を引っ張ると輪が締まって捕まえられる、という物だ。だが、講師はこうも言っていた。『まあ、こんなのに引っかかる様なモノはいないがな』
あまりにも怪しかった。どこが? と聞かれれば、全部、と答えるしかないくらいに。
彼は慎重にその縄に近づき、引っ張ってみる。すると軽い手応えと共に「きゃっ」という、女の悲鳴が路地裏から聞こえてきた。
場違いといえば場違いな物の連続に釈然としない物を感じながらも、その路地裏に駆け寄ったジルバートだったが、彼が見たのは放り出された縄の端と、パタパタと走り去る軽い足音だけだった。
「こんばんは」
軽く挨拶をして酒場の中を見回したジルバートは、何か違和感を覚えた。いつもとどこか違う。それは決して大きなものではなかったが何かが引っかかった。再び注意深くあたりを観察してみる。
その違和感の元はジルバートたちがよく利用する席の側の壁にあった。貼ってあった紙が剥がされた跡、そして何かの汚れ――恐らくふき取られた血痕――である。ジルバートは夕食の仕込みをしているマスターに近づいて訊ねた。
「マスター、あの壁際の血痕はなんです? それと何か剥がした跡がありますが」
「それ、か。いや、わしもよく知らないんだがな、たぶん、そこに貼ってあった紙が原因じゃないか?」
「紙……?」
訝しげに問うジルバートに、マスターは苦笑を浮かべた。
「数日前のことだが、ライアスが酔った勢いで川柳とか言うやつを書いて貼ったんだが、今日見るとそれが無くなって、代わりにそうなっていたというわけだ」
「川柳って、何が書いてあったんです?」
「――逆らうな 地獄を見るぞ 確実に」
「……なるほど。で、ライアスは生きてるんですか?」
「上で寝ている。死んではいないようだな」
「セシリアたちは癒してくれなかったんですか?」
「……ジル、もしお前が癒しの奇跡を使えたとして、癒してやる勇気はあるか?」
「……いえ。ライアスには悪いですが、数日苦しんでもらいます」
「そういうことだ」
ジルバートはライアスが死にかけているだろう二階を見上げて、軽くため息をついた。
「まあ、彼は自業自得として、セシリアたちはどこに行ったんですか?」
「ウィンとラシェルと共に仕事を受けたぞ。危険は少ないが手間の掛かる仕事だから、しばらくはあまりここにいないかもな」
「そうですか……」
「どうかしたのか?」
考え込んだジルバートを見てマスターが尋ねるが、彼はそれに答えず曖昧な笑みを浮かべて立ち上がった。
「いえ、たいしたことじゃないんです。また来ます」
「おや、今日はもう帰るのか?」
「ええ、また明日来てみます」
「さて、どうしたものか……」
帰り際にライアスの部屋に寄ってみたが、とりあえず全く命に別状はないようだった。しかし、痛みだけは結構あるらしくベットの上でうなっていた。さすがにその状態のライアスに手伝いを頼むのは憚られたので、見舞いの言葉だけをかけ、自分のことについては何も言わなかった。
実のところ、脅迫の件はそれほど心配していなかったのだが、さすがに相談しようとした相手が一人も捕まらなかったことは、少々彼を気落ちさせていた。
「あまり、気にする必要はないと思う――っ」
そう言いかけたジルバートは途中で言葉を止めて、素早く後ろを振り返った。その足下に一本の矢が突き立つ。素早く腰の剣を引き抜いたジルバートは再び飛んできた矢を、その剣でたたき落とした。更に二本の矢が飛んできたが、いずれも彼から逸れる。
「何者だ!」
闇に向かって声を上げるが、それに答えたのはそこから走り去る足音だけだった。それを追って足を踏み出しかけたジルバートだったが、いつもとは違い援護が期待できないことを思い出し、足を止めた。そのまましばらくあたりの様子をうかがい、殺気が消えたことを確認して、彼は剣を納めた。
「……あまり、楽観も出来ない、か」
ジルバートは先ほどよりも幾分早足になり、家路を急いだ。
「ますた~~、やっぱり、仕事ない?」
情けないミュールの声を聞いて白熊亭の主人は苦笑を浮かべた。昨日の今日ですぐに仕事が入ってくるはずもない。それなりの手練れであれば指名で仕事が入ることもあるが、彼女たちはまだ駆け出しだった。
「すまんが、ないな。なんだったら、うちでウェイトレスでもやるか? 飯代と宿代くらいにはなるぞ」
「そ、それはできるだけ避けたいわね。一応冒険者なんだし……」
相変わらず水と薫製肉だけの食事をしながら言うミュールだったが、このままでは彼女が信念を曲げるのもそれほど遠い未来のことではないかもしれない。
それを尻目に後の3人は普通の食事を摂っていた。だれもミュールに食事を分けようとしないのは案外冷たいのか、それとも彼女のプライドのことを考えているのか……。
その時、閑散とした酒場に扉の開く音が響いた。幾人かの視線が集まる中、姿を現したのは目深にフードをかぶった怪しげな人物だった。体格からすると、おそらく男だろう。彼は酒場の中を見渡すと、ひときわ暇そうなオーラを漂わせたミュールたち一行のテーブルに近づき、声をかけた。
「……仕事を依頼したいのだが」
普段なら外見も怪しい上に、マスターも通さず直接依頼してくるような人物の話は聞かないのだが、いかんせん現在は金がなかった。背に腹は代えられない。不確かな安全よりも明日のおまんまである。ミュールはしぶしぶながら彼に椅子を勧めた。
「それで、仕事の内容は何じゃ?」
「人を一人、捕まえて欲しい」
単刀直入に聞くドウにその男は説明を始めた。
捕まえて欲しいという人物は二〇前後の男で、彼の家の家宝を盗んで逃げている。名前は解らないが、外見は解っており、この付近で目撃されているという。
「実際に仕事を受けてもらえれば、俺が同行するので迷うことはない。報酬は一人あたり一〇〇〇ガメル払う。どうだ受けてもらえるか?」
彼らにとって一人あたり一〇〇〇ガメルというのはかなりの報酬だった。ドウは他の三人と視線を交わし、誰からも異論が出ないのを確かめてうなずいた。
「解った、その仕事――」
「ちょっと待ってくれるかしら?」
ドウが受ける、と言おうとした台詞に割り込む声があった。ミュールたちがそちらに顔を向けると、女性のエルフが立っていた。それほど身長は高くなくミュールと同じか、それより低いくらい。外見は整っているが端麗というよりも、どちらかといえば可愛いと言えるような容姿だったが、なぜか迫力――というか、相手を威圧する威厳のような物を\ruby{纏}{まと}っている。顔はにこやかに微笑んでいるのに……。
そのエルフはミュールたちの顔を見回すと、確認するように言った。
「あなたたち、この仕事、受けるの?」
「一応、そのつもりなんだけど……」
少しためらいがちに答えるミュールに視線を向け、そのエルフは苦笑を浮かべながら言った。
「そうなると、私たちと敵対することになると思うんだけど、いい? どうもその捕まえる人って私たちの知り合いみたいなのよ」
「そ、そうなんですか……えっと、すみません、この仕事受けられません」
台詞の後半は、すでに腰を浮かしかけている依頼人の男に向けられた物だった。男はその言葉を聞くか聞かないかのうちに、エルフから目をそらして戸口に向かっていた。
エルフはその男に厳しい視線を向けていたが、すぐにミュールに向き直って笑顔を浮かべた。
「ありがと。これで何か食べてちょうだい」
彼女はテーブルにいくらかのガメル銀貨を置くと、側のテーブルに戻り、何か真剣な顔で仲間と相談し始めた。
その成り行きを見守っていたカシムが不思議そうな表情でミュールに尋ねた。
「なあ、何故断ったんだ? 俺たちはともかく、お前は結構厳しいんだろ、懐具合」
エルフの置いていったお金で早速定食を注文しながら、ミュールが苦笑する。
「そうなんだけどね、やっぱお金よりも命でしょ? 彼女、ラシェルさんだから」
そう言われ、カシムがギョッとしたように先ほどのエルフに視線を向ける。
「あれが、あの、逆らうと地――」
「ちょっと待つみゅう!」
何か言いかけたカシムの頭にパコの体当たりのような蹴りが飛ぶ。カシムはテーブルに頭を\ruby{強}{したた}かにぶつけ、沈黙する。
「カシム、言葉には気をつけた方が良いぞ。長生きしたいじゃろう?」
「そうそう。せめて私たちは巻き込まないでね」
突っ伏したまま顔を上げないカシムに、その言葉は聞こえていたのか。それも解らぬまま、今日も一見平穏な夜は更けてゆく。
「父上、何ですか?」
朝起きてすぐ、ジルバートは父親に呼ばれ、今日も執務室を訪れていた。彼の父親は忙しいらしく、書類に目を通しながら答えた。
「お前、昨日の夜、弓矢で狙われたらしいな?」
「……よくご存じで」
あの時、あたりに人影はなかったはずである。当然、父親にも話していないし、執事に話したわけでもない。にもかかわらず、なぜ彼の父親がそのことを知っているのか。そのことについては追求せず、ジルバートはそれだけ答えた。
「それで、どうするつもりだ?」
「一応、仲間に相談してみようと思ったのですが、昨日はつかまりませんでした」
「そうか。依頼という形にするのであれば、ここに三〇〇〇ガメルある。持っていけ」
そういうとジルバートの父親は、机の引き出しから小袋を取り出し、ジルバートに投げてよこした。彼はそれを受け止め、軽く揺すって重さを確かめると懐に収めた。数人で分けるとなると大した金額にはならないが、昨日弓矢を撃ってきた者程度が相手であれば、このぐらいが妥当だろう。
「ありがとうございます。では」
今日も顔を上げなかった父親に軽く一礼すると、ジルバートは執務室を辞した。
今日、ジルバートが白熊亭に顔を出したのはいつもより早い時間、昼過ぎだった。ラシェルやセシリアを探してきたのだが、酒場を見回した限り、彼女たちはおろかほとんど客の姿はなく、食堂の隅で一つのグループが遅い昼食を取っているだけだった。
ジルバートはカウンター席につくと、疲れたようにため息をついた。
「どうした、ジル。疲れているのか?」
「はぁ、ちょっと、身の回りに奇妙なことが起こってまして……」
今日もここに来る途中、妙な罠が仕掛けてあった。――昨日の奇妙な縄を罠というのであれば、だが。
今日のはいわゆる吊り上げ式罠、と言う物だが、町中に仕掛けてあったのでは目立って仕方ない。当然のようにジルバートも気付き、何事もなかったかのように避けてきたが、気になることには変わりなかった。
「奇妙なことか――例えば、あんな感じか?」
そう言われ、マスターの指さす方を見る。そこには仕立ての良い服を着こなした、ピシリとした身なりの初老の男がいた。どこかの貴族に使えているのだろうか、ジルバートの家に仕えている執事と同じような雰囲気を漂わせており、一般的に言えば信頼されるような外見である。
しかし、彼の行動はそんな外見など全く無意味にしてしまうほど怪しかった。酒場の入り口で縄を手に持ち、出たり入ったりしながら何か工作をしている。
その行為の元では、整えられた身なりは逆に怪しさを倍増させていた。
しばし呆然とそれを眺めていたジルバートだったが、その男の姿が消え、やっと我に返ったようにマスターに向き直った。
「何だったんですか、あれ」
「さてな。ちょっと見てきてくれんか?」
「……はぁ、解りました」
はっきり言えば気は進まなかったが、自分に関係がある――かもしれないことで他人に迷惑をかけるのは避けたかった。
ジルバートは扉の所まで行くと、慎重に扉を開けた。
ゴン、コロコロコロ……
目の前に落ちてきたのは、一人では抱えるのも大変そうな樽だった。しかも逆さまになって落ちてきたので、気付かずに出ていれば、もしかするとその中に閉じこめられたのかもしれない。
しばし目の前に転がる樽の理不尽さに沈黙するジルバート。だが、彼にかけられたのはマスターの無情な言葉だった。
「片づけといてくれな、他の客に迷惑だから」
彼は平然としたマスターの顔と巨大な樽を見比べため息をつくと、その樽を横倒しにしてごろごろと転がし、脇道へと避けておいた。それから一応、あたりを見回してみるが当然の事ながら先ほどの男の姿は見あたらなかった。
ジルバートはどちらかというと、力のある方である。しかし、彼が転がして運ぶような樽をこれを仕掛けた人物――おそらくはあの初老の男は、どうやって持ってきたのであろうか? やはりどこか釈然としない物を感じながらジルバートは酒場に戻り、カウンターでエールを傾けた。
「これは、誰かに手伝ってもらった方がいいのかもしれませんね」
ため息をつくように呟くジルバートの言葉を耳にして、マスターが訊ねる。
「もしかして、昨日もそのことで来ていたのか?」
「はい。セシリアたちに頼もうと思っていたのですが……」
「彼女たち三人はしばらく無理だろうな……。どうだ、あいつらに依頼せんか?」
彼は一つのテーブルを指した。そちらに目をやると男女の四人組が食事をしている。だが、男性陣三人が普通の食事をしているのに対し、唯一の女性は水に干し肉らしき物という、かなりわびしさ漂う食事だった。
「あいつら、仕事がないらしくてな。数日前からあの調子だ。まだ駆け出しだが、手伝いくらいはできるだろう」
「そうですか。まあ、背に腹は代えられませんね」
少し不安がないわけではなかったが、三〇〇〇ガメルで雇うにはある意味ちょうど良いとも言える。
ジルバートは飲みかけのエールを手に取ると立ち上がり、そのテーブルに近づいて声をかけた。
「こんにちは。マスターに聞いたのですが、仕事をお探しとか」
「そうなんだけど、何か良い話があるの?」
「その前におぬしは誰じゃ?」
勢い込んで言ったミュールをドウが制してジルバートに尋ねた。
「ああ、僕はジルといいます。仕事というのは最近、僕の命を狙ってくる奴らを捕まえるのを手伝って欲しいのですが」
そういいながら、ジルバートはミュールの隣に開いていた席に腰掛ける。
「……その前に一つ聞きたいのですが、最近、どこからか家宝を盗んだりしませんでしたよね?」
カシムがそう尋ねたのも無理はない。ジルバートの外見は、数日前の怪しい男が捕獲を依頼した人物の説明と酷似していた。
ジルバートはその問いに少々むっとしたような表情で答えた。
「あいにくですが、人様の物に手をつけなければいけないほどお金には困っていません」
「そうよね。身なりも良いし」
取り繕うように笑うミュールの側で、カシムは足を抱えてうずくまっている。ミュールの台詞の直前に聞こえた、どがっ、という音になにやら関係があるのかもしれなかったが、それを追求する者はこの場にはいなかった。
「ところで、ジルさんはラシェルさんのお知り合い?」
「ラシェルは僕の冒険仲間ですが、なにか?」
「い、いえ。ほほほほ……」
ミュールが多少笑みを引きつらせ、何でもないというふうに手を振る。
「そうですか? 依頼料の方は全員で三〇〇〇ガメルですが、受けてもらえますか?」
「はい、それはもちろん」
即答したのはミュールだった。かなり切羽詰まっているのかもしれない。……二日も干し肉と水だけの生活をすれば仕方ないことかもしれないが。
「それはありがたい……のですが、お仲間とは相談しなくて良いのですか?」
「別に不満はないと思いますよ、ねぇ?」
そう言ってミュールは他の二人に視線を向ける。ドウとカシムは苦笑しつつも頷く。パコだけは頷かなかったが、別に仕事に不満というわけではなく目の前の料理に夢中になっているだけのようだ。
多少そのことが気に掛かったジルバートだったが、仲間が気にしていないようなので、そのことについて言及は避け、立ち上がった。
「では、明日からよろしくお願いしますね」
しかし立ち去ろうとしたその背中に、遠慮がちに引き留める声が掛かる。
「あ、あのぅ」
声をかけたのはミュールだった。視線を泳がせながら、言いにくそうに言葉を続ける。
「ひじょーに言いにくいんですが、前金、もらえません? わたし、あんまりお金無くて……」
その言葉通り、ミュールの前に置かれているのは一杯の水だけだった。右手に握りしめられた干し肉が彼女の苦境を雄弁に物語っている。もしかすると、すでに"あんまり"は通り過ぎ、"全く"になっているのかもしれない。
ジルバートは苦笑し、父親から預かった袋を懐から取り出した。
その日、ジルバートの目を覚まさせたのは、窓から差し込む柔らかな日差しと小鳥のさえずりだった。
体調も申し分なく、朝食には彼の好物が出たし、食後のお茶には茶柱が立っていた。
はっきり言ってその日のジルバートは絶好調、かつ気分爽快だった……屋敷から出て三分ほど歩くまでは。
今、彼の視線の先には一本の縄が張られていた。ちょうど足首の高さくらいである。もしもジルバートが走っていて、かつあたりを全く気にしていなければ、それに引っかかって無様にこけていたかもしれない。
しかし、ジルバートは最近のこともあり、あたりを警戒して歩いている。当然その縄にも気付き、立ち止まっていた。
ちょっとへこんだ。
「ま、まあ、跨げばいいことだよな」
ジルバートは気を取り直すように呟くと、その縄を跨いだ。が、次の瞬間、ジルバートの目線は地面の高さまで下がっていた。ジルバートが跨ぐことを見越してか、その先に落とし穴が掘ってあったのだ。
かなりへこんだ。
憮然とした表情で\ruby{這}{は}い上がろうとしたが、足を取られて危うく穴の縁に顔をぶつけそうになる。足元を見るとご丁寧にも捕り餅のようなものが敷いてあった。
いまや、彼の気分は最低である。朝は気分が良かっただけに、その落差は彼の精神をかなり打ちのめしていた。肉体的な実害はそれほどでもなかったが、もしこの罠が精神的なダメージを狙った物であれば、それは非常に成功していると言えた。
そんなジルバートの上に影が落ちる。顔を上げると、見たことのない女性が彼のことを見下ろしていた。
腰まで伸びた金糸のような髪が朝日を反射して透けるように輝き、端麗に整った美しい顔立ちは一見冷たさを感じさせるほどだが、笑みを向けられた者はその感想をあっさりと捨て去るだろう。服装は中流階級の婦女子の外出着といった感じだが、その実、よく見ると生地や仕立てが非常に上等で、かなり値の張る物ということが予想できる。
おそらくそれなりの身分の女性なのだろうが、往来で落とし穴に落ち、さらに足には取り餅まで絡みつかせたジルバートの様子を見ても不思議そうな顔を見せもせず、ニッコリと微笑んで声をかけてきた。
「ジルバート様、おはようございます」
その女性は確かにジルバートの名前を呼んだが、彼は彼女に見覚えがなかった。おそらく貴族社会で面識があるのだろうが、ジルバートはあまりあの空気が好きになれず顔見知りは非常少ない。
「えっと……どなたですか?」
「そ、そんな、私のことをお忘れですか? ダンスもご一緒していただきましたのに……」
そういわれ、必死で記憶を探るジルバートだったが、やはり思い出せない。ダンスと言うからには何らかのパーティーで出会ったのだろうが、そもそもそういった集まりが好きではない彼はほとんど出席することがない。出席するとしても、父親に言われてしぶしぶながら、ということが多い。そのためか、ダンスパーティーの事など、ほとんど覚えていなかった。それよりも、仲間たちと冒険しているときの方がおもしろかったし、よほど記憶も鮮明だ。
しかし、彼女はかなりの美人である。いくら興味を持てない貴族社会でのこととはいえ、それをすっぱりと忘れてしまうとはよほど女性に苦労していないのか、それとも女性に興味がないのか……。
「すみません、やっぱり思い出せません」
「そうですか、残念です」
女性は伏し目がちに呟いたが、すぐに顔を上げて言った。
「でも、大丈夫ですっ! 二人の思いではこれから一緒に作っていけますもの!」
「……はい?」
「わたくし、フランディア・アランと申します。\ruby{不束者}{ふつつかもの}ですが、これからよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げるフランディアに、ジルバートは困惑したように声をかけた。
「あの~、話が見えないんですが……」
「嫌ですわ、ジルバート様、これから付き合っていくわけですから――」
「ちょっとまってください! どうして私があなたと付き合うんですか?」
「付き合って、くださらないんですか?」
あわててフランディアの言葉を遮ったジルバートだったが、彼女に悲しそうな潤んだ瞳で見つめられて、気まずそうに顔を逸らしながらもきっぱりと言った。
「当然です。私はまだ誰ともそういうお付き合いをするつもりはありません」
「そうですか、残念です……。でも、私はあきらめません!」
すくっと立ち上がり、手を胸の前で握りしめると、
「それでは、ジルバート様、ごきげんよう」
軽く頭を下げて歩み去っていった。その後ろ姿を半ば呆然として見送るジルバート。だが、フランディアが視界から消えると我に返り、自分の現状を思い出して暗然としたため息をついた。
フランディアと別れて半日後、ジルバートは再び彼女に会うためにアラン家を訪れていた。アラン家のことはよく知らなかったが、この街でも有数の貴族であるため、迷うことはなかった。
通行人に穴の底から救出されながら、絶対に関わり合いになるまい、と誓っていたジルバートだったが、その誓いは数時間ほどで破られることになったわけである。とはいえ、捜査を始めようとした矢先、先日雇った仲間とともに酒場から出たとたん、矢が飛んでくれば決心も揺らごうというものだ。
アラン家は町の中心部からやや外れたところにあった。敷地はエゼン家よりもやや大きく、屋敷の作りもしっかりしている。庭は手入れが行き届き、季節の花が咲いていた。エゼン家も手入れはされているが、花などはほとんど植えられていない。やはり当主の性格の違いだろうか?
一緒にアラン家を訪れたミュールたちは玄関付近の部屋で待たされていたが、ジルバートは一人だけ屋敷の奥の部屋に通されていた。この部屋も持ち主の趣味を表すかのように決して派手ではないが、質の良い宝飾品、美術品が展示されている。ジルバートはそちらの方面にあまり\ruby{造詣}{ぞうけい}が深くないが、そんな彼にでも十分に良い物と言うことが解る。
手持ちぶさただったジルバートはそれらの物を見たり、窓から庭の花を眺めていたが、やがて背後で扉の開く音が聞こえた。振り返ると、フランディアが軽く一礼をして入ってくるところだった。
彼女の格好は朝見たときに比べると多少華美になってはいるが、貴族にとっては普段着の範囲内で、取り立てて着飾っているわけではない。しかしそれでも――いやだからこそか、フランディアの美しさをより一層、際立たせていた。だが、彼女であればたとえ華やかなドレスと装飾品を身にまとったとしても、それによって彼女の美しさが埋没してしまうようなこともないだろうが。
フランディアは優雅な仕草でジルバートにソファーに座るよう促した。ジルバートがそれに応じて腰をかけると、彼女も腰を下ろした。ジルバートの正面、ではなく、寄り添うように彼のすぐ隣に。
ジルバートは軽く咳払いをし、改めて少し間をあけて座り直してから口を開いた。
「えーと、なぜ私がここに来たかお解りですか?」
「もちろんです。私とお付き合いいただけるのですね」
「違います! だいたい何なんですか? 落とし穴を掘ったりしたの、あなたでしょう」
語気を強めるジルバートだったが、フランディアはこたえた様子も見せず、にっこりとほほえんだ。貴族社会で普段から鍛えられているフランディアと、ろくに顔を出しもしないジルバートでは話術においては格が違っていた。ジルバートも決して頭は悪くないが、少々役者不足という感は否めなかった。
「お父様が仰っておりましたわ。魅力的な男は自分の力で捕まえるものだ、と」
「それは……少し意味が違うのでは?」
「でも、ほら、こうしてジルバート様は私の元へ来てくださったわけですし」
少し顔を引きつらせて言ったジルバートに、穏やかに言葉を返し彼の方にすり寄るフランディア。だが、ジルバートもその分横に寄り、彼女を遮るように彼女の前に手を掲げた。
「私は、あなたがやりすぎだと思ったから来たんです。落とし穴やロープは別としても、弓矢で狙うのはひどいと思いますが?」
「弓矢? 私、そんな野蛮なことはいたしませんわ。第一、私がジルバート様を傷つけるようなことをするはずがありません」
落とし穴でも下手をすれば大怪我である。しかし、フランディアはそんなことは棚に放り上げ、困惑したような表情で、しかしきっぱりと否定した。
彼女が騙す気になれば、ジルバートなど簡単に言いくるめられそうだったが、ジルバートには彼女が嘘を言ってるとは思えなかった。それに、よく考えれば、フランディアが殺しかねない弓矢を使う、というのはやはりおかしい。落とし穴やロープトラップ程度なら――相手によるが――笑い話で済まないこともないし、気を引きたいから、という理由にもまだうなずけないでもないが。
「となると、いったい誰が……やはりあれは脅迫の……」
「ジルバート様、誰かに狙われているのですか? いったい誰に? そんな輩、私が抹殺いたしますわ」
フランディアは物騒なことをサラリと口にしつつも穏やかに微笑み、目の前に掲げられたジルバートの手をそっと握った。だが、その瞳はしっかりと座っている。ジルバートの背中に冷や汗が流れた。
「えっと、そちらの方は私の方で処理しますので……」
やんわりとフランディアの手をほどき、ジルバートは少しぎこちない笑みを浮かべた。
「そうですか? 残念ですわ……。私の力が必要でしたら、いつでもおっしゃってください。微力ながらお力添えいたします」
「はい、ありがとうございます」
ひきつりながらも、なんとかそつなく笑みを浮かべてお礼を言い、ジルバートは立ち上がって一礼した。ちなみに、ソファーの真ん中に座ったにもかかわらず、立ち上がった場所はソファーの端である。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
「そうですか……残念です。またいらしてくださいね?」
伏し目がちに憂いをたたえた表情で囁くフランディアに、ジルバートは賢明にも曖昧な笑みを浮かべただけだった。
捜査は遅々として進まなかった。もともと捜査や聞き込みなどに慣れていない上、唯一頼りになりそうなシーフがパコである。さらにもともとたいした手がかりもない。上手くいく要素はなにもなく、時間だけが過ぎていった。
「――このお肉、美味しい――わね」
ミュールの台詞がとぎれがちなのは、口にほおばった肉のせいである。その言葉にジルバートは苦笑を浮かべ、その横に立った給仕長は深いため息をついた。
日が暮れた後、「よければ、食事を」と言ったジルバートの言葉に甘え、ミュールたちはジルバート家で食事をごちそうになっていた。遠慮や羞恥心、控えめと言う言葉を辞書から消して食事に望んだ彼らの食事量は、すでにかなりのものに達していた。一般の食堂などとは違い、使い終わった食器は片づけられるためはっきりとは解らないが、最も食べていないカシムでさえもジルバートの数倍は食べているだろう。それを大きく引き離してドウ、ミュール、パコがひたすら突っ走っている。
そして、そのレースは数時間ほど続いた。
とはいえ、エゼン家と言えばこの街でも有数の貴族である。不意な来客も多く、食料はそれなりに貯蓄してあるし、飢えた冒険者にむさぼり食われたところで家の財政が傾くようなことはありえない。ただ一つ記すとするならば、翌日の早朝、大量の食材を抱えて東奔西走する料理長の姿があったことぐらいである。
その夜、夜半に喉の渇きを覚えたジルバートは、一階の厨房へと足を運んでいた。思えばあまりの健啖家ぶりを発揮するミュールたちにつられ、いつもより食事の量が多かった気がする。おそらくそのためだろう。
飲み物ぐらい、言えば誰かが部屋まで持ってきてくれるだろうが、ジルバートは子供の頃からできることは自分でするように躾られてきた。また、その教育のためかもしれないが、人に何もかもやってもらうことはあまり好きでない。そのため、お茶くらいは使用人に頼んだりはせず、自分で\ruby{淹}{い}れるようになっていた。
厨房へと向かう途中、ジルバートは応接間の前で人の話し声を耳にして足を止めた。普通の客を通す応接間は玄関のそばにあり、ジルバートの部屋から厨房へ向かう途中に前を通ることはないのだが、こちらの応接間はごく親しい人を通す部屋のため、ずいぶんと屋敷の奥にある。
「こんな時間に客?」
客が来ること自体は珍しくないが、時間が時間である。しかも、奥の応接間である。誰が来ているのか知らないが、それをジルバートが知らないのは不自然だった。不審に思った彼は扉に近づき耳を澄ます。完全な盗み聴きのスタイルだったが、ここはジルバートの家である。室内の人物にさえバレなければ問題ない。
普通の応接間の方であれば盗み聞き、盗み見する部屋も完備されているが、こちらにはそんな物はない。しかし、扉はそれほど厚くなく、夜ということであたりは静まりかえっていたため、室内の会話を聞くことはそれほど困難なことではなかった。
耳を傾けること暫し、やがてその額に冷や汗が浮かぶ。
一人は言わずとしれた彼の父親である。どうも機嫌が良いらしく、珍しく楽しげに笑っている。確かにそれは珍しいことだが、それ自体はさして重要ではない。問題はもう一方の声だった。
その声は昼間聞いた声に酷似していた。いや、はっきり言ってしまえば同じだった。間違いない。それはフランディアだった。
アラン家と言えば、この町ではエゼン家に勝るとも劣らない名家である。当然、貴族の社交界でジルバートの父親にフランディアが面識を得ることはあるだろうが、彼の父親はどちらかといえば気難しく、若い女性が気軽に話せるような相手ではない。いや、ないはずである。にもかかわらず、フランディアはその父親と歓談しているのである。
危機だった。ジルバートにとっては。すでに馬は射られたも同然である。馬を無くした将はどうやって逃げればいいのか……。とりあえず、徒歩でフランディアから逃げるのは厳しそうである。
そのことを認識し、しばし扉の前で呆然と立ちすくむジルバートだったが、やがてどこか遠いところに視線を向けて呟いた。
「――き、聞かなかったことに……」
無意味である。単なる現実逃避でしかない。だが、彼はそのまま、おぼつかない足取りでそこを離れた。喉の渇きは更に強まっていたが、今の彼に厨房に行ってお茶を淹れるだけの気力は残っていなかった。
次の日、ジルバートはアラン家について調べるため、朝から数少ない貴族の知人を訪ね歩いていた。普段はほとんど貴族の社交界に興味を示さないジルバートだが、今回は自分の未来が掛かっている。真剣にもなろうというものだ。
その結果解ったのは、フランディアが経済面でも政治面でも非常なやり手であることだった。
アラン家の前当主、つまりフランディアの父親は数年前に死亡していた。それ以降、アラン家は一人娘であるフランディアの手にゆだねられているわけだが、もともとかなりのものだったその資産は更に増え、政治の分野でもそれなりの影響力を保持しているらしい。知人の中には政治の分野に於いても影響力の保持どころか、拡大している、と言うものあった。
脅迫の相手を突き止めるのにもはや一刻の猶予もなかった。あまり手間取っていては、フランディアの介入を招くおそれがある。自分でやるとは言ったが、あの調子ではすぐに調査を始めても不思議ではない。そんなことになり下手に負い目を作ろうものなら、一気に結婚まで持って行かれる可能性さえあった。
「というわけで、今日で終わりにします。次に襲ってきたら、必ず捕まえてください」
今日のジルバートはマジだった。ミュールたちを見つめる瞳の色が、昨日とは異なっている。
「えっと、どうしたんですか、突然」
「私の自由が掛かっているんです。お願いしますよ?」
少し困惑したようなミュールに笑顔を向けるジルバート。その口調は穏やかだったが、彼女にとってはその表情とは裏腹に、恫喝されているような気分だった。
「それは構わないが、再び弓矢で狙われたらどうするんだ?」
「その時は全員で追いかけます。ただ、そろそろ直接攻撃に出てくるのではないでしょうか。弓矢では埒があかないことは向こうも解っているでしょうから」
案の定というべきか、今日も宿から出てしばらくすると襲撃を受けた。それもジルバートの予想したとおり、弓矢ではなくて直接攻撃で、だ。過去二度の襲撃で弓矢では手傷さえ負わせらそうにない事が解かり、やむにやまれずというところだろうか。
襲撃者たちは迅速だった。長剣を携えた男が三人、脇道から飛び出し、他の者には目もくれず狙いをジルバート一人に絞って襲いかかった。その動きは素早く、素人のものではなかった。おそらくドウあたりと一対一で勝負すれば、軍配は襲撃者にあがったであろう。
だが、相手が悪かった。ミュールたちは完全に不意をうたれていたが、ジルバートの反応は素早い。抜く手も見せず一人を切り捨て、もう一人も数合と打ち合うことなく切り伏せる。残った一人はその時点で逃げをうった。何とかドウやミュールが追撃するが、その男はそれをかわし、なんとか逃げ\ruby{果}{おお}せる。
追撃にジルバートが加わっていれば結果は変わっただろうが、手傷を負わせた時点で彼は剣を引いていた。慈悲の心か、はたまた殺しすぎるとあとでマズイと思ったのか……。
ジルバートの剣捌きはあまりに鮮やかだった。最初の二人についてはミュールたちが手出しする暇もなく切られてしまった。しかも、切り倒しながらその口元に笑みが浮かんでいたように見えたのは、果たしてミュールの気のせいだろうか?
「やっぱりあの依頼、受けなくて良かったみゅう」
珍しく神妙な口調で呟くパコに、カシムが同意するように頷き、足下に転がる死体とその横でうめいている男を顎で指して言った。
「そうだな。下手するとそこに転がっていたのは俺かもしれん」
「逃げた男、追うのかみゅう?」
「いえ、追わなくてかまいませんよ。こいつを尋問すればいいことですから」
顔には笑みさえ浮かべて足下に転がる男を蹴るジルバート。見た感じではそれほど強く蹴った様子はなかったのだが、蹴られた男はうめき声を上げて悶絶する。だが、その光景を見てもジルバートが表情を変えることはなかった。
……先ほどミュールが見たと思った光景は、現実なのかもしれない。
死体一つと半死体一つを携えてやってきたジルバートに対しても、詰め所の役人はひたすら丁寧だった。それどころか、労いの言葉さえ掛けてくれた。ただし、尋問を自分でやりたい、というジルバートの言葉だけは固辞したが。
「いえ、それは私たちの職務です、私たちにお任せください。……その方がみんな幸福になれます」
ジルバートに対するどんな噂を聞いているのか、台詞の後半に彼らの本音が現れているのかもしれない。
翌日、詰め所を訪れたジルバートたちを待っていたのは、目の下に隈を作った役人と、徹夜で書き上げられたと\ruby{思}{おぼ}しき報告書であった。
それによると、エゼン家を脅迫し、ジルバートを襲っていたのは、以前ジルバートとその仲間によって潰された盗賊グループの生き残りであった。その盗賊グループは現在のギルドからも見放されているため、以前の首領を殺し、また金も持っている憎きジルバートを脅迫して建て直しを計った、というのだ。
さらにその報告書にはアジトの場所まで記してあった。たった一晩でこれだけのことを聞き出すとは、いったいどんな尋問をしたのか不思議に思ったジルバートだったが、役人は「ちょっとジルバート様について、世間話をしただけです」と言い、具体的なことは何も話さなかった。
あとは特に記すこともない。所詮はただの盗賊と、この街でも有数の戦士であるジルバートでは格が違った。さらにそこに未熟とはいえ他の冒険者の援護もある。彼らが負けるはずもなかった。
あえて記すとするならば、盗賊側に死者が出なかったことくらいだろう。ちなみに、戦闘時にジルバートの手に握られていたのは、愛用の魔剣ではなく、詰め所から拝借してきたモールであった。
「さあさあ、どんどん飲んでください、今日は奢りますから」
ジルバートははっきり言ってご機嫌だった。命を狙われることがなくなったからなのか、それとも他に理由があるのか……。
「でも、私たち、何だったのかしら。あんまり役に立たなかったような気がするんだけど」
「いえいえ、そんなことありませんよ。最後の戦いではずいぶんと助けていただきました」
「でも、おぬし一人でも勝てたのじゃろう?」
エールを一気に飲み干し、少々不満そうに言うドウにジルバートは苦笑した。
「まあ、その可能性もありますが……。言うなれば、あなた方は保険ですよ。保険は使わずに済むに越したことありません」
「なんか、釈然としないけど……まあ良いわ。こうして美味しいご飯が食べられることだしね」
「そうですよ。気にしちゃいけません。――あ、エールの追加お願いします」
「はーい。少々お待ちください」
超、が付くほどハイテンションだったジルバートの動きが、いきなり凍り付いた。
「どうしたんですか?」
その様子を見て、カシムが怪訝な様子で訪ねた。だが、その言葉にジルバートが反応するにはしばしの時間が必要だった。
「――い、いえ、なんだか、幻聴が……疲れているんでしょうか?」
「まあ、それはいけませんわ、ジルバート様。お休みになられてはいかがです? 何なら膝枕いたしますわ」
解凍しかけたジルバートだったが、エールをテーブルに置きながら、耳元で囁かれたその言葉に、再び動かなくなった。
「どうかなされましたか、ジルバート様?」
その頬を指先でつつくウェイトレス――いや、フランディア。
「な、何であなたが、こんなところに!」
「まあ、そんなつれないですわ。もちろん、ジルバート様のお側にいるためです」
「ア、アラン家の運営はどうするんです」
「うちのものは優秀ですわ。私が逐一指示してやる必要はありません。ある程度指示してやれば、あとは勝手に資産は増えていくものです」
――世の中は不公平だ
それがそばで話を聞いていたミュールたちの本音であろう。
しかし、彼女たちは賢明だった。特になにを口にするわけでもなく、すすっと二人から距離を置き、自分たちだけで好き勝手に宴会を続ける。きっとこの数日で、関わりに合いにならない方が良いものの判断が付くようになったのだろう。
ただ一つジルバートにとって幸運だったのは、セシリアとラシェルの二人がこの場にいなかったことであろう……まあ、いろんな意味で時間の問題だろうが。
「ゆ、夢だ、きっと……そう……俺はまだベットの中で……」
「ふふっ、そうですわね。これはあまーい、あまーい、醒めることのない夢ですわ……悪夢なんかじゃありませんよ?」
どこか遠いところを見つめて呟くジルバートの横で、フランディアは艶やかなほほえみを浮かべた。
多くの者に平等に、今日も平穏な夜は更けてゆく……。
「あとがき」
これは知る人ぞしる(笑)オンラインサークルの掲示板に連載していたものをまとめた物です。ある程度、加筆修正はしましたが、何となくブチブチと切れた感じが何とも言えません(苦笑) イマイチではありますが、余り書き込んでると今世紀中に公開することができなくなりそうなので止めました。宣言した手前、公開しないわけにもいかないし。
一応、これは以前プレイしたTRPGのセッションを元に書いています。細部は異なっていますが、大筋はそのままです。さて、この後、ジルバートとフランディアはどうなるのでしょうか……?(笑)
二〇世紀最後の月に
瑞原 斎 拝